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2012年12月15日 (土)

スパゲッティぎらい

えいりあん・めもらんだむ

 チューブに繋がれて生きるのは嫌だと言う人が居る。
 機能を補助するたくさんの管とケーブルに繋がれた重態患者の姿を見て、不自然だ残酷だ可哀想で見ていられないと言う人が居る。

 尊厳死を宣言(Living Will)している人も居る。

 たとえば、癌末期(おとなしいタイプではない癌で、他臓器への遠隔転移が複数ある第IV期)で抗癌剤治療を拒否してホスピスケアを選択する、とか。

 そのイメージするところは、よくわかるよ。

 実父が癌で亡くなる前、どこまで延命処置を施すか主治医と相談して予め決めたのは、ほかならぬ私だから。実母が入院中、脳梗塞の再発作を起こしたときに、主治医からかかって来た電話に昇圧剤は使うけれど人工呼吸も心マもしない等々返事したのも私だから。

 尊厳死の宣言書は「私は、私の傷病が不治であり、かつ死が迫っていたり、」と始まる。

 癌末期とか大規模な脳梗塞とかは、まあ確かに「不治であり、かつ死が迫っている」と言っていいだろう。

 とはいえ、壊死した脳容積が100 cc以上という大きな梗塞巣を抱えた実母は、6年半経った今も生きているんだけどね。それもアンチ・チューブ派には忌み嫌われる胃瘻を造設して。実母は、胃瘻を通しての栄養で4年間命を繋いだ後、口から食べることを思い出して、今では100 %経口摂取だ。(「チューブで栄養を流し込んで生かし続ける」というイメージだけで胃瘻に反対する人たちに言いたいことは、どらねこさんちでコメントしたから、ここではもう触れない。→どらねこさんの胃瘻栄養に思うこと胃ろうは全廃は望ましいことなのか?

 しかし、数多くのチューブに繋がれることが起こり得るのは、癌や脳血管障害のような先の経過が読める病気の末期ばかりではないのだ。
 
 この夏のいちばん暑かった日、姑が車に撥ねられた。

 近所の1次救急をすべてすっ飛ばして、全国に27カ所しかないという高度救命救急センターに直接搬送されるレヴェルの状態。危篤。3時間先に生きているか死んでいるか、救急医療チームにもわからない。

 ねえ、「傷病」って外傷も含まれるんでしょう?
 姑の場合、どうなんだ?

 死は間違いなく迫っていた。不治かどうかは、誰にもわからなかった。


 呼吸確保のための挿管、循環維持のための点滴ルート確保3本、緊急開腹手術して胸部ドレーンが3本、腹部ドレーンが1本、経鼻胃管、もちろん尿道カテーテルも。覚えている管だけでこのくらい。モニターのワイヤーは数えなかった。
 すべて、救命のために。


 だいたい「不治」って、なんなんだ?
 人間はすべからく死亡率100 %だ。
 年寄りだろうが子どもだろうが、今日1日を過ごせば余命が1日減ることに変わりはない。


 チューブは嫌、スパゲッティ症候群になってまで生きながらえたくない、と尊厳死宣言する人は、姑のような重度の交通外傷を負ったら、挿管を拒否するんだろうか? 交通事故に遭ったら、「自分は癌末期なので、半年早くなってしまいましたが、治療は要りません」と言うんだろうか? そういう人もいるかもしれないが、「残り半年、これだけはやるつもりだった、これを見届けるまでは死ねない、だから今のこの大怪我からは助けてくれ」と言う人も居て当然だと私は思う。

 でも、尊厳死の宣言書には、そんな場合分けはないんだよね。

 仮に瀕死の重傷を負った被害者が、自らの尊厳死宣言書を示して治療拒否の意思表示をしたとしても、それは法に基く救護義務とコンフリクトを起こすことになる。だって、交通事故の現場に居るのは、まず加害者だよ。救護義務違反なんかしたら、罪が重くなるじゃないか。次に、救急隊。救命が仕事。警察。法律遵守が仕事。被害者の尊厳死宣言主張は、イコール他人に法律に違反することを強いることになる。

 尊厳死協会って、ここんとこ想定していないんじゃないか? あえて触れないのか?


 姑は救急搬送時、意識はあったのだが、「痛い、痛い」としか言えなかった。

 高度救命救急チームの集約的な治療のおかげで、3時間先の生死もわからなかった姑は、「今晩は越せるでしょう」「今日明日のうちにどうにかなることはないでしょう」と12時間、48時間といった単位で生き延びて行った。
 数多くのチューブに助けられて。


 危篤は脱しても、重態であることには変わりない。
 次々と合併症に襲われ、高度救命救急センターから出られない。周囲のベッドの患者さんはもう何巡もしているのに。
 1日に2時間だけ、家族に限り面会が許される病棟(簡単な手術はそこのベッドでやっちゃうような現場だから、面会者は感染源になる)で、うちの家族だけ顔パス。


 高度救命救急の現場では、生死は本当に紙一重だ。

 即死こそ免れたもののどう見ても救命の見込みがない患者さんには、本人と家族にお別れの時間をくれるためのケアをしていた。
 だが、少しでも救命の可能性があれば、ありとあらゆる手立てを講じるのが救命救急。
 素人目にも、うわ、大変な人が運ばれて来たと驚くような患者さんでも、翌週には救急病棟の中では軽症者用のベッドに移り、リハビリを始めていたりした。かと思うと、昨日まで意識があって会話できていた人が今日亡くなってしまったり。
 生死を分けるのは、必ずしも救急に運ばれた直接の原因の傷病とは限らず、以前からの持病とか持って生まれた体質とか、そんなわずかな差で峠のどちらに行けるかが決まっていく。



 姑がpoint-of-no-returnを越えたのは、11月だった。


 スパゲッティ症候群を否定する人たちは、このタイミングでチューブを外せと言うのだろうか?
 この時、姑の自力呼吸は必要量の30 %、70 %は人工呼吸器の助けを借りていた。外したら、ほぼ即死。意識のある人に、そんなことをするのか?
 そもそも最初から人工呼吸器を付けるからいけない? 救急搬送された夜の緊急手術から呼吸管理は必要だったし、10月には自力呼吸が90 %で、あと一歩で呼吸器を外せるというところまで行っていたのだ。


 チューブを嫌うのは、個人の自由だ。

 ただ、尊厳死宣言をする人には、不慮の事故で瀕死の重傷を負った場合にはどう対応して欲しいのか文書化して置いて欲しいものだ。でないと、Living Willを託された家族が困る。

 そして、幾多のチューブに助けられて命を繋ごうとしている人について、残酷だの可哀想だの言う人たちよ。あなた方は、不幸にして自分の過失で他人に瀕死の重傷を負わせてしまった時に「かわいそうだから、挿管しないであげてください」と言えるのか? そのくらい強固な信念に基いての発言なのか?と私は問いたい。


 姑は、事故から4ヶ月間生きるために闘い、力尽きた。


 姑は医師だった。
 そして、日本尊厳死協会の正会員だった。



 こういう議論を、私は姑本人としたかったのに、とても残念だ。

Living_will





          合掌    南無阿弥陀仏




copyright (c) 2012- えいりあん
 転載厳禁。引用の際は、ブログ「血糖を管理する日々」に言及の上、リンクを張ってください。

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コメント

えいりあんさん、ご家族も、いろいろ大変でしたね。年末のあわただしい時期と重なってまだまだなすべきことがたくさんあることだとお察しします。お疲れがどっと出ないようにご自愛ください。

私は前から、別にチューブをあちこちに繋がれているとかいないとかは、即「尊厳」とは関係ないと思っています。

そのような状況を外から見ただけで尊厳が侵されているかどうかなどを判断できるというのはある種の傲慢だと思うからです。

大体において、誰でも、ちょっと検査されたり入院したり、手術されたりという状況に置かれるだけで、「自尊」の念を完全に傷つけられるシーンがいくらでもあると思うのです。

どうしようもないし、一時のことだと分かっているから我慢しても、自立や自律や自助を失うのって、死ぬことそのものも含めて、自尊に反すると感じる人は少なくないと思います。

でも、本当は、どんな形でも、自分の生を可能な限り全うしていること自体に生物としての尊厳があるんじゃないでしょうか。

改めて考えさせられました。

投稿: まや | 2012年12月21日 (金) 07:40

まやさん

 お久しぶりです。コメントありがとうございます。

 もうかれこれ四半世紀前、私自身も、聞きかじったイメージだけで批判的な目で医療を見ていたことがありました。

 はじめての出産時のことです。
 自然なお産がいいとか、分娩台の姿勢は不自然だとか、モニターで管理されるのはいやだとか、会陰切開はしたくないとか・・・
 出産したのは大学病院でしたので(なんの合併症もなかったのですが、姑の強硬な主張でそこの先生に紹介されたのでした)、当然、モニター巻いて、点滴ルート確保して、のお産でしたが・・・

 大学のオーベンも研修医も看護師も、みんな私のお産のプロセスが進むのをじっと待ってくれました。しかるべきタイミングまで進行したところで、ちょっと手助けしてくれるだけでした。
 医学的に問題のないお産であれば、それがベストであること。
 産むのは産婦であって、医療スタッフはそれをサポートするだけであること。
 そんなこと、はじめてお産に臨む私なんかより、現場のお医者さんたちのほうがずっとよく分かっていることなのでした。
 マスコミや噂話からの先入観に捕われて不信感を抱いていた自分を深く反省しましたね。

# ちなみに姿勢なんて、いちばん力を入れやすいように自分で動いちゃいましたから、無問題。そのために筋トレして鍛えたのですから。上腕使ってぐっと起き上がったもんで、点滴ルートから血液が逆流していました。(^o^) ふたりめを産んだ産院では座産でしたが、そちらの分娩台のほうが動きの自由度が少なくて困りました。

 ちょっと見聞きしたイメージだけで、やれ「人間、口から食べられなくなったらおしまい」だの「チューブに繋がれて生かされるのはかわいそう」だの言う人に、ムカつくんですよ。いえ、ご自身のことについてそう思うのはご自由ですよ。でも、他人に言うな、と。言えるだけの現場を知っているのか、と。

 昨年、夫が救急に運ばれたとき、履いていたタイトなサイクルパンツを脱がせなくてはならなかったのですよね。救急のお医者さんも看護師さんも(ともに女性)「いいですか? 脱がせちゃいますけど、いいですか?」って訊くんです。夫本人も私も、なんでそんなこと訊くの?さっさと治療してよ、という感じでした。
 医療が必要な状況では、日常とは物事の優先順位が違って当然。
 優先事項から遂行するのも、当然。
 当然のことが行われたからといって、人の尊厳は何も影響されない、と思うのです。夫も私も。

 尿管カテーテルや気道チューブを挿入されたら尊厳が損なわれると言う人には、私は「あんたの尊厳ってそんなチャチなもんなの?」と聞きたいですね。

投稿: えいりあん | 2012年12月22日 (土) 19:42

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